2025-2026年の「カウントダウンコンサート(カウコン)」が、例年になく炎上した。
原因は回線トラブルや演出批判といった表面的なものだけではなく、「旧ジャニーズ時代」と「新しいSTARTO時代」の価値観の衝突が背景にある。
特に、演出を担当したtimeleszの菊池風磨、そして無関係ながらも誹謗中傷を受けた松島聡。この二人をめぐる空気が、いまのファン文化の構造を映し出している。
- カウコン炎上の本質は技術トラブルではなく“空気の変化”にあった
- timeleszと旧ジャニ文化の間にある「価値観の断層」が露わになった
- 松島聡は無関係ながらSNS構造の中で誹謗中傷の標的となった
- 風磨の挑発的な演出とファンのノスタルジーが衝突した夜だった
- 炎上は怒りではなく“過去を守りたい気持ち”の表出だった
- 共感が暴走するSNSでは「沈黙」もひとつの誠実な選択になる
- ファン文化は「叩く」から「受け入れる」成熟期へと移行している
- これからのカウコンは“スピードと温度”の共存をどう設計するかが鍵
- 変化を恐れるより、変わりゆく空気を愛せるファンこそ次の時代をつくる
カウコン炎上の理由:構造的トラブルと“新時代”への違和感
2025年の年越し、華やかなはずの「カウントダウンコンサート(カウコン)」が、予想外の形で炎上した。
原因は単なる技術トラブルではなく、「変化への戸惑い」と「安心感の崩壊」が重なった構造的な出来事だった。
ヒカリのステージの裏側で、時代が変わる音がしていた。
有料配信トラブルが引き金になったファンの不満
今年のカウコンは、初の有料オンライン配信という挑戦から始まった。
しかし、配信当日は回線がパンク。前半は映像が固まり、音声が途切れ、最悪の場合「見られなかった」という人もいた。
多くのファンが4000円近いチケットを購入していたため、「金を払ってトラブルを見せられた」という不満が一気に広がった。
配信延長などの救済策がとられたものの、ファン心理のダメージは大きかった。
「回線が落ちた」という単純なミスではなく、「有料化=プロ品質」を期待していた分、信頼が裏切られたように感じたのだ。
エンタメの世界では、期待が高いほど失望の温度も上がる。
特に今回は「新しいSTARTO社体制での初カウコン」という節目だったこともあり、ファンは旧ジャニーズ時代のような安定したエンタメ品質を求めていた。
つまり、トラブル自体よりも「新体制への不信感」が炎上の温床になっていった。
菊池風磨の演出が「松本潤時代」と比較されて叩かれた背景
もうひとつの火種は演出面だった。
今年の演出を担当したのは、Sexy Zone改めtimeleszの菊池風磨。
彼はバラエティやドラマでも存在感を発揮し、次世代を担うリーダーと期待されていた。
しかし、SNS上では「風磨の演出がつまらない」「松潤の時代が良かった」という比較が殺到した。
2020年代初期までのカウコンは、嵐の松本潤による演出が高く評価されていた。
彼の手腕は、舞台美術や構成、ファン目線を熟知した“職人技”として知られる。
対して、菊池風磨はまだ経験が浅く、自身も出演者としてステージに立つ中で、演出との両立を図っていた。
そのため、「自分のグループを目立たせた」「一部グループの出番が短い」といった偏りへの不満が噴出。
本来は演出家の個性の違いでしかないものが、“旧時代の完成度”と比較され、炎上の口実として使われた。
つまり、批判は風磨個人に向けられていたようでいて、実際は「過去の安心感へのノスタルジー」にすぎなかった。
timeleszが矢面に立ったのは“変化への拒否反応”だった
菊池風磨が演出を担当し、自らのグループも出演する――この構図が、炎上をさらに複雑にした。
timeleszはNetflixのオーディション番組から生まれた新体制グループであり、旧ジャニーズ文化とは異なる“開かれた出自”を持つ。
そのため、「ジュニアを経ていない」「いきなり表舞台に出た」という違和感を持つ古参ファンも多かった。
ファンの一部は、このグループを“旧時代の象徴ではない存在”として敵視し始めていた。
そして、菊池風磨が演出家として表に立った瞬間、その感情が「叩ける理由」として形を持った。
風磨が悪いわけでも、timeleszが失敗したわけでもない。
炎上の正体は、“新しい世代への拒否反応”だった。
つまり今回のカウコン炎上は、技術的トラブルや演出の賛否という表層の裏に、「時代が変わる痛み」があったということだ。
視聴者は、ただ怒っていたのではない。
彼らは“懐かしい安心感”を失った悲しみに、反応していた。
松島聡が標的になった理由:偶然が生んだ“飛び火型炎上”
カウコン炎上の波は、意図せぬ方向へ飛び火した。
timeleszのメンバー松島聡が突然SNS上で標的となり、インスタグラムの投稿を削除・アカウントを一時的に閉鎖する事態にまで発展した。
だが実際、彼はカウコン演出にも運営にも関与していなかった。
なぜ何もしていない彼が、矢面に立たされたのか。そこにはSNS特有の“構造的な炎上の連鎖”があった。
インスタ質問箱に集中した誹謗中傷の経緯
松島聡のInstagramは、ファンとの距離が近いことで知られていた。
特に質問箱機能を使い、匿名のメッセージに丁寧に返答していた彼の姿勢は、「優しさの象徴」とされていた。
しかし、カウコンの炎上後、その質問箱に大量の誹謗中傷が殺到した。
内容は「風磨を庇うな」「timeleszのせいで壊れた」など、まったく根拠のないものばかり。
SNS上では、“グループの誰かが叩かれている=全員が悪い”という短絡的な空気が生まれる。
彼の返信の優しいトーンが、逆に「逃げている」「何も言わないのがムカつく」と受け取られ、攻撃の対象となってしまった。
結果、松島はすべての投稿を削除し、沈黙を選んだ。これは逃避ではなく、“空気を冷ますための静かな防御”だった。
だが、沈黙は沈黙で「何かあったのでは」と憶測を呼び、騒動はさらに膨らんでいった。
グループ批判と個人攻撃が混ざるSNSの構造
今回の炎上の特徴は、「個人」と「組織」が混ざって攻撃された点にある。
もともとtimeleszには、Netflix発グループという特性から、「旧ジャニファンが抱く違和感」が存在していた。
古参ファンの一部は、「努力の歴史を経ていない」「急に登場して主役を奪った」といった嫉妬や警戒を抱いていた。
カウコンの演出を風磨が担当したことで、その不満の受け皿が“timelesz全体”に広がった。
松島は直接関係がないにも関わらず、グループの一員というだけで“連帯責任”を負わされた形だ。
このようにSNSの炎上は、論理ではなく「感情の連鎖反応」で広がる。
誰かの発言が火種になるのではなく、「叩きやすい構図」が用意されると、そこに匿名の怒りが集まる。
SNSは個人を攻撃するツールではなく、共感を通じて“自分の正しさを確かめる場”になっている。
だからこそ、ファンの「怒り」も「悲しみ」も、最終的には“攻撃”という形で表出してしまう。
松島聡はその共感の衝突点に、偶然立ってしまっただけなのだ。
心配と攻撃が同居する「感情の渦」に巻き込まれた
興味深いのは、誹謗中傷の一方で、「大丈夫?」「無理しないで」という心配の声も同時に溢れたことだ。
つまりSNS上では、「叩く人」と「守る人」が共存している。
その混沌が、本人にとっては何よりも苦しい。
守る言葉も、攻撃の延長に聞こえてしまうからだ。
“心配”という言葉の裏に、「あなたは傷ついているはず」という無意識の押し付けがある。
そして本人が発信をやめると、「やっぱり傷ついた」と解釈される。これが、沈黙がさらに炎上を呼ぶ構造だ。
松島の選んだ沈黙は、感情の渦から一歩引くための冷静な選択だった。
しかしSNSという空間では、「何も言わない」ことすら物語として消費される。
もはや炎上とは、何かを“間違えた”人が起こすものではなく、“物語の流れに巻き込まれた”人が生まれる現象だ。
松島聡が経験したのは、まさにその典型例だった。
timeleszと“旧ジャニーズ文化”の断層
timeleszという名前は、「時間を超える」という意味を持つ。
しかし、彼らが立っている場所は、まさに“時代の境界線”そのものだった。
カウコンで巻き起こった反発は、単なる演出批判ではない。そこには、旧ジャニーズ文化と新体制の間に横たわる見えない断層があった。
「ジュニア出身でない新メンバー」への偏見
timeleszは、Sexy Zoneの再編によって誕生した新体制グループだ。
かつてのメンバー構成を知るファンにとって、その変化は「再出発」というより「再構築」に近かった。
とくに話題を呼んだのが、ジュニア経験のない新メンバーの加入だった。
ジャニーズ時代のファンにとって、「ジャニーズJr.を経てデビューする」という過程はアイドルの神話的プロセスであり、努力と夢の象徴だった。
そこを通らずにいきなりメジャーデビューしたメンバーが加わることは、「物語を共有できない存在」として受け止められた。
その偏見が、無意識のうちに“異物感”として残った。
たとえ彼らが努力していても、ファンが抱く“物語の完成形”からは外れて見える。
その違和感は、カウコンという“伝統の場”で顕在化した。
観客が求めたのは、「変わらない年越し」だった。だが、ステージに立っていたのは、もう違う時代を生きるアイドルたちだった。
Netflix発という異質性が招いたファンダムの摩擦
timeleszが他のグループと異なる点は、Netflix発のオーディション番組という形で再結成されたことにある。
この背景は、ファン文化の中で微妙な軋みを生んだ。
旧ジャニーズ体制のファンにとって、「裏方を経て成長する物語」が正統ルートだった。
一方で、timeleszは「世界基準」「映像演出」「ブランディング重視」という新しい価値観の象徴でもある。
つまり、彼らは“努力の物語”から“設計された物語”へとシフトしたグループだ。
その違いが、ファン同士の摩擦を引き起こした。
「見せ方が上手すぎる」「本気の汗が見えない」といった批判は、その感情の裏返しだ。
ファンの中には、“アイドルを応援する自分”の存在意義を「苦労を支えること」に感じていた人も多い。
だからこそ、完成度の高いパフォーマンスを見せるtimeleszに、「応援の余地がない」と感じる人もいた。
それが、SNSでの反発や“timelesz冷遇論”という形で表面化していった。
新旧の“アイドル観”がぶつかった夜
カウコンの夜、実際にぶつかったのは「世代」ではなく「アイドル観」だった。
旧ジャニーズ文化は、“努力の可視化”が魅力の一部だった。
練習、汗、涙、絆――そうしたプロセスが感情の接着剤になっていた。
一方でtimeleszは、“完成された世界観”で魅せるスタイルを選んだ。
ファンに「共感」ではなく「憧れ」を提供する。
それは正しい進化であると同時に、古い価値観から見れば冷たいものにも映る。
結果、年越しのステージで起きたのは、「自分の慣れ親しんだ世界」が消えていく寂しさへの抵抗だった。
観客は誰もが、無意識のうちに“ジャニーズ的安心感”を求めていた。
だが、その空気を更新することこそが、timeleszが背負わされた使命だった。
この夜、ファンの怒りは彼らに向けられたようでいて、実際には「時代の変化」に向けられていたのだ。
つまり、炎上とは、誰かの過ちではなく“時代が動く音”だった。
炎上の本質は「誰が悪いか」ではなく「何を許せなかったか」
今回のカウコン炎上は、個人の過ちや一時的な演出ミスでは説明できない。
本質的には、視聴者の「許せなかった感情」がどこに生まれたのか――その構造を読み解く必要がある。
怒りの矛先が誰に向かったかよりも、何が“壊されたと感じたのか”が重要なのだ。
松本潤の“秩序演出”と風磨の“挑発演出”の違い
カウコンの演出を語るうえで、比較され続けているのが松本潤と菊池風磨のスタイルだ。
松本潤は、かつて嵐のライブを通じて確立した“秩序の美学”を持つ。
光のタイミング、立ち位置の精度、ファンへの目線の分配――そのすべてが「完璧に制御された感動」だった。
一方の菊池風磨は、“感情の爆発”を重視する。
ステージ上での自然な掛け合い、余白、アドリブ――それはテレビ世代のファンにとって“予測不能なライブ感”だった。
だが、旧ジャニーズ文化のファン層の多くは、「秩序」こそがプロフェッショナルの証と信じている。
その結果、菊池の演出は「軽い」「雑」と評され、対立軸が生まれた。
しかし実際は、風磨の演出は挑発ではなく、“変化を受け入れさせるための衝撃療法”だったとも言える。
整然とした時代の後に、あえて“乱れ”を持ち込む。そこには「もう一度、生きたライブを取り戻したい」という願いがあったのかもしれない。
視聴者が失ったのは「自分の推しが映る安心感」
炎上の裏には、もうひとつ見逃せない心理がある。
それは、配信トラブルや演出批判の中で、視聴者が“自分の推しを見られなかった”という失望だ。
ジャニーズ時代から続くカウコンの魅力は、「一年の最後に全グループが同じ画面で笑う」という“ファン平等の時間”にあった。
しかし今年の配信では、映像が乱れたり、カメラの切り替えが偏ったりと、全員が平等に映る瞬間が減った。
その瞬間、ファンが失ったのはエンタメではなく「自分がそこにいる感覚」だった。
推しが映らないことは、「自分の存在が消えること」と同義になる。
それは、ファンダムにとって最も許しがたい体験だ。
だからこそ批判は「風磨の演出が悪い」「配信が最悪」という言葉に変換されたが、根底には「自分の推しが不当な扱いを受けた」という感情があった。
この“喪失感”がSNSでの怒りを増幅させたのだ。
炎上は不満の爆発ではなく“ノスタルジーの防衛反応”
今回の炎上を「世代間の対立」と捉えるのは簡単だが、より正確に言えばそれは“ノスタルジーの防衛反応”だった。
ファンにとってカウコンは、過去と未来をつなぐ「年越しの儀式」だ。
毎年変わらないロゴ、曲順、挨拶――それが安心をつくっていた。
だが、新体制のSTARTO社になって以降、その形式が少しずつ崩れている。
嵐やKing & Princeが不在のまま、“新しい顔ぶれ”がステージを引き継ぐ。
その光景に、ファンは「誇らしさ」と「寂しさ」の両方を感じた。
この複雑な感情を、SNSはひとつの言葉に集約してしまう――「炎上」だ。
つまり、怒りではなく「過去を守りたい気持ち」が反射的に攻撃に変わった。
誰も悪くない。ただ、“時代が変わる痛み”がそこにあっただけ。
炎上とは、過去を愛している人たちが、未来を怖がるときに起きる現象なのだ。
カウコンの夜は、その“痛み”を全員が共有した夜だった。
松島聡への誹謗中傷が映したSNS時代の「共感疲れ」
松島聡がSNSで誹謗中傷の的となった背景には、いまのインターネット社会が抱える“共感疲れ”の構造がある。
ファンは怒っていたのではなく、疲れていた。
そしてその疲労の矛先が、たまたま彼に向かってしまったのだ。
共感が正義とされる時代ほど、人々は他人の痛みに過敏になる。
その結果、「寄り添うこと」がいつの間にか「支配すること」へと変わっていく。
善意のつもりが加害になる、感情共有の暴走
炎上の渦中、松島のコメント欄には「大丈夫?」「無理しないで」といったメッセージが溢れていた。
一見それは優しい言葉に見える。だが、本人にとっては違う。
彼が感じていたのは、「みんなが“傷ついた前提”で話しかけてくる」息苦しさだったはずだ。
現代のSNSでは、「共感」が最も消費される感情になっている。
誰かが落ち込めば、“寄り添う側”に立つことで自分の善意を確かめる。
だが、それが重なれば、共感が暴走し、本人の沈黙すら奪う。
「頑張れ」と言えばプレッシャーになり、「何も言わない」と言えば冷たいと叩かれる。
その結果、本人は「どんな言葉も誤解される」と感じ、発信を止めてしまう。
松島の沈黙は弱さではなく、共感疲れから自分を守るための防衛反応だった。
しかし、SNSの世界では沈黙もまた「物語化」されてしまう。
つまり、どんな選択をしても“コンテンツ化”されるのがこの時代の残酷さだ。
ファンが守りたいのは“推し”ではなく“自分の理想像”
松島聡への誹謗中傷の中には、ファンを名乗るアカウントも少なくなかった。
しかしその多くは、彼を傷つけたいのではなく、自分の信じていた“理想のグループ像”を守りたかっただけだ。
つまり、「timeleszはこうあるべき」「風磨はこう振る舞うべき」「聡ちゃんは癒しキャラでいてほしい」――こうした“理想の物語”を維持したかったのだ。
ファンの中で理想像が崩れると、アイドルそのものではなく“自分の物語”が崩壊するように感じてしまう。
その痛みを埋めるために、攻撃という形で感情を整理しようとする。
だから、SNSでの批判の多くは「攻撃」ではなく、「悲鳴」だ。
だが、それが積み重なれば、当事者を追い詰める暴力になる。
松島のように、直接関わっていない人まで巻き込まれるのは、まさにその“理想の自己防衛”が暴走した結果だった。
この構造は、今のアイドル文化だけでなく、社会全体が抱える「正義の過剰供給」の縮図でもある。
「何もしていない人」が叩かれる仕組みを止めるには
今回の騒動で最も象徴的だったのは、「何もしていない人」が一番叩かれるという構図だった。
松島聡は発言もなく、炎上の中心にもいなかった。
しかし、「何も言わない=何か隠している」と解釈され、憶測が連鎖的に拡散した。
この現象を止めるには、まず「沈黙=逃げ」という思考をやめることだ。
沈黙は、時に最も誠実な反応になりうる。
また、SNS利用者一人ひとりが「自分の感情を誰にぶつけているのか」を意識することが必要だ。
怒りの投稿をする前に、「それは本当に自分の感情か、それとも誰かの怒りを代弁しているだけか」と問う。
それが、共感社会の中での唯一の冷静なブレーキになる。
松島聡の沈黙は、そんな時代における“静かな抵抗”だったのかもしれない。
彼の姿勢が示したのは、「言葉を出さない勇気」こそ、SNS時代の新しい表現の形だということだ。
カウコン炎上とtimelesz批判から見えた“ファン文化の変わり目”まとめ
2025-2026年のカウコン騒動は、ひとつの炎上ではなく、“文化の転換点”だった。
それは、旧ジャニーズからSTARTO時代へと移り変わる過程で生じた、「空気の断絶」と「価値観の衝突」だった。
この夜、スクリーンの明るさの裏側で、ファンの心の中では“慣れ親しんだ時代が終わる音”が確かに鳴っていた。
技術トラブルより深刻だったのは「空気の断絶」
カウコン炎上の直接的な原因として語られるのは、配信トラブルや演出の不満だ。
しかし、本当の問題はそこではない。
多くのファンが違和感を覚えたのは、「これまでの空気が消えていた」という感覚だった。
画面越しに伝わってきたのは、「同じ年越し」ではなく、「新しい時代の年越し」だった。
照明も構成も変わり、かつてのような“温かいカウコン空間”が失われたことで、ファンの中に静かな孤独感が広がった。
それは怒りではなく、“置いていかれた感覚”だ。
炎上は、怒りの爆発ではなく「共有できない寂しさ」の形だった。
誰も悪くない。ただ、“同じ空気”を失ったことが痛かったのだ。
“旧ジャニ文化”の温度と“新時代”の速度差が露呈
ジャニーズ文化は、長い年月をかけて「温度」で育ってきた。
ファンが推しを支え、成長を見守り、時間を共有する――それが“愛”の形だった。
一方で、STARTO社体制のもとで生まれた新世代グループは、「スピード」と「完成度」で勝負する。
演出は洗練され、映像はグローバル基準。
だがそこに、“ゆっくり愛する余白”は少ない。
この温度と速度のギャップこそが、今のファンダムを分断している。
timeleszのような存在は、その狭間で揺れる象徴だ。
新しいファンはスピード感を称賛し、古参ファンは“温かさの欠落”を嘆く。
しかし、その両方が正しい。
いま必要なのは、どちらかを否定することではなく、「異なるリズムが共存できる場を作ること」だ。
時代が速くなるほど、ファンの関係性には“ゆるやかさ”が求められる。
それを整えることが、今後のカウコンの最大の課題になる。
これからは「叩くより、受け入れる」ファンの成熟が試される
今回の炎上は、ファンの成熟を問う出来事でもあった。
批判や怒りの多くは、「自分が知っているカウコンと違った」という戸惑いから生まれた。
だが、変化は必ず“不安”を伴う。
それを“敵”ではなく“過程”として受け入れられるかどうかが、これからの文化を決める。
ファンがSNSで怒るのは、それだけ愛している証拠でもある。
けれど、本当に愛しているなら、変化を叩くのではなく、支える方向にエネルギーを使うべきだ。
菊池風磨が挑戦した“挑発的な演出”も、松島聡が選んだ“沈黙”も、すべては新しい時代を模索する試みだった。
「叩くこと」で安心する時代は、もう終わる。
これからは、「違いを受け入れること」で、ファンの美学が測られる時代に入る。
2025年のカウコン炎上は、その最初のテストだった。
あの夜の炎上は終わりではなく、“新しい共感の形”が生まれるための痛みだったのかもしれない。
- カウコン炎上の本質は技術トラブルではなく“空気の変化”にあった
- timeleszと旧ジャニ文化の間にある「価値観の断層」が露わになった
- 松島聡は無関係ながらSNS構造の中で誹謗中傷の標的となった
- 風磨の挑発的な演出とファンのノスタルジーが衝突した夜だった
- 炎上は怒りではなく“過去を守りたい気持ち”の表出だった
- 共感が暴走するSNSでは「沈黙」もひとつの誠実な選択になる
- ファン文化は「叩く」から「受け入れる」成熟期へと移行している
- これからのカウコンは“スピードと温度”の共存をどう設計するかが鍵
- 変化を恐れるより、変わりゆく空気を愛せるファンこそ次の時代をつくる


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